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ドイツの研究室訪問記記


2003; 8(1), 10-12


植木 絢子
川崎医療福祉大学 医療福祉環境デザイン学科

1.まえがき

ドイツの研究室訪問記を書くようにと御下命を頂いたのは,2002年秋のことで,丁度古巣のミュンヘンに滞在していた時でした。かねてから尊敬を抱いていた環境医学の父とも言えるProf. Max von Pettenkoferの足跡を訪ねて,果ては弟子の1人である森鴎外の住んでいた辺りまでうろついていたところでした。ミュンヘン大学には,「医学史」と言う講座もあり(現教授はProf. Wolfgang G.Locher),様々な研究者の生きた背景や研究の詳細が今もきちんと整理保存され,現代の研究を行う上での貴重なアイデアを提供し続けています。話が脱線していますが,免疫学の役割の大きさに関することなので敢て脱線をお許しください。

19世紀のヨーロッパはまだコレラの流行に悩まされていましたが,Prof. Pettenkoferは早くから,患者の排泄物中に原因物質があると考えていました。しかし,流行時に同じ飲料水を使用しても発病しない人が沢山いることが,彼を汚染された飲料水中の単一な原因説に向かうことを躊躇させ,何か別の要素の重要性を強調させることになりました。ベルリンのProf. Robert Kochは原因物質を一つに絞り込んでコレラ菌を発見し,相次いで他の菌の発見に成功しました。Prof. Pettenkoferは篤実な人物として知られ,どうみても嫉妬からではなく本気でコレラ菌説に反対し,聴衆の前でコレラ菌の培養濃縮液を飲んでみせ,発病しないことを実証したりしました。しかしコレラ菌説が世の中に定着し,老後の鬱状態もあってProf. Pettenkoferは自殺に至りました。その翌年Prof.Kochはノーベル賞を受賞しました。ある友人の教授に,何故Pettenkoferは発病しなかったのだろうかと尋ねてみたところ,答えは「免疫があったから」でした。当時,衛生事情が悪くて多くの人がコレラ菌に感染していた筈だというのです。医師と薬剤師の両方の資格をもち,有名なLiebigの弟子として,化学の分野でも沢山の業績を残した彼は,同じ原因物質が病気を起こしたり起こさなかったりする再現性の無さに耐えられなかったのだと思います。多分,Prof. Pettenkoferの観察力があまりにも鋭く,遠くを見渡せたが故の悲劇だったのでしょう。素晴らしく多くの知識を詰め込んだ免疫学という学問が,まだ200年の歴史しか持っていないことに深い感銘を覚えたのです。

2.ミュンヘン工科大学のZentrum Allergie undUmwelt(アレルギーおよび環境研究所)訪問記

ミュンヘンにはミュンヘン大学とミュンヘン工科大学とがあります。このアレルギーおよび環境研究所(以下研究所と略)は,1999年12月に開所しており,バイエルン州によって建てられたものです。案内用パンフレットにも記載されている様に,近年何らかのアレルギーに悩む人の数が激増し,天然および人工的な環境因子の関与が注目されています。これらの因果関係を科学的に解明し,治療に,更には予防に役立てることを差し迫った目標として計画されたものです。所長のProf. HeidrumBehrendtは女性で,ハンブルグ大学やデュッセルドルフ大学で環境とアレルギーについての研究で知られていた方です。(写真1)



日本が大変お好きで,以前に多田富雄先生と御話をした折に,日本文化は「間」の文化だと伺ったなどと話しておられました。尊敬の念をこめてこのように記すと年配の方と思われそうですが,まだ50代前半と思われる,大変きさくで,底抜けに明るい方です。彼女の名はもう少し正確に言うと,Prof. Heidrum Ring-Behrendtで,ご主人のProf. Johannes Ringは同じ大学の教授でAllergologeアレルギー学者であり,このセンターの立ち上げに重要な役割を果たした方です。彼女は結婚が遅かったので,公式には前の名前を使うことが多いとのことです。私は彼女をFrau Ringと呼んでいます。

この研究所ではいくつかの臨床の科と連携して(特に深い関係があるのは皮膚アレルギー科,耳鼻科,呼吸器内科など),アレルギーを持つ患者さんの病態の把握,病因の究明,治療法の検討と確立などに当たる他,動物を用いたアレルギーの実験,細胞免疫の研究,分子生物学的手法による免疫毒性の解析(ミクロでの曝露実験等を含む)など,大きく分けて4つのグループから構成されています。それぞれのグループには責任者がいて,より具体的な5−10のテーマについて研究が行われています。専属のスタッフ(バイエルン州に所属)はそれほど多人数ではありませんが,グラントによる研究者や臨床の各科からやってくるスタッフ,ハンブルグ大学などから必要に応じてやってくるスタッフなどから成っています。ドイツは大学間の連携が容易に行われる所ですが,まだ完成したばかりの,明るい雰囲気で,情熱に溢れた集団に加わってくる人が今後増えるものと思われます。清潔で明るい研究所を案内して頂きましたが,機器に関しては日本の研究室とほぼ同じような感じです。建物は地下1階,地上2階建て,総面積574平方メートルとドイツの建物としてはこじんまりしており,各階は研究テーマごとに分割して占有され,新しいデータや学会発表のポスターなどがそれぞれの壁を見事に彩っていました。

ドイツの大学でいつも感じるのは,建物が大きいこと,スタッフの数が多いこと,そして殆どが官営であるのに隅々までが清潔に光っておりメンテナンスにも相当の資金が投入されていると思われることです。また,御互いの仕事について実に素直に評価し合うことも確かで,天井が空に向かって開いているような開放感と充実感が味わえるように思います。これは多分,人間の力のはるかに及ばない宇宙を支配する力,絶対なる正義,神といったものを意識する長い歴史と文化が根底にあるためかと思います。

機器の中で一つ印象に残ったのは,炎症反応によるヒスタミンの放出量を,生体にセンサーを挿入してin vivoで測定することの出来る機械で,精密機器メーカーとの協力による試作品とのことでした。初めてみるこの機械は,かなりの“すぐれもの”と思いました。(写真2)



所長のProf. Behrendtは環境中物質による人の免疫系への作用について強い関心を持っています。今日急速に,様々なアレルギーを持つ人が増えていることもあり,環境因子による免疫毒性が注目されていることもありますが,彼女自身silicaの免疫に与える影響を白血球(顆粒球)を使ってデュッセルドルフ大学で研究していたという経緯にもよると思います。私もsilicaについて興味をもって来ましたので,気の合う間柄です。

明るく広々とした空間,清潔でセンスのある建物内部の構築,細部までよく計画されて作られた部署ごとの設備を大変羨ましく思い,5年先,10年先の大きな成果を期待しているところです。