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免疫毒性学という学問体系の構築を目指して


2000; 5(1), 2-4


荒川 泰昭
静岡県立大学 食品栄養科学部 公衆衛生学研究室
 大学院 生活健康科学研究科 生体衛生学研究室

 今から25年ほど前になるだろうか,東京大学医学部衛生学教室に在任し始めた頃より,これからの予防医学は後追い対策ではなく前向き対策が必要であり,健康阻害要因を検索,評価する手法としての毒性学も従来からの大量・短期暴露でのLD50レベルの一般急性毒性学的評価ではなく,微量・長期暴露での慢性毒性学的評価が必要であることを感じ始めた。とくに免疫系では化学物質過敏症,花粉症,アトピー性皮膚炎などの発症要因が,また脳神経系ではパーキンソン氏病,アルツハイマー病などの発症要因が環境化学物質の微量・長期暴露 (潜行型環境汚染) によるものではないかと疑われた。そこで,毒性学の領域に免疫学的評価や脳神経学的評価を取り入れた免疫毒性学や脳神経毒性学なる学問体系を構築出来ないかと考え始めた。当時,社会医学領域ではメチル水銀の水俣病,カドミウムのイタイイタイ病,ガソリン・アンチノック剤の四エチル鉛障害,それに森永砒素ミルク事件など,金属による環境汚染問題が主流であったため,とりあえず時流に合わせて微量元素あるいは金属の免疫毒性の研究から始めた。

 猿まねが大嫌いな私は5−10年先に問題化する環境化学物質は何かと先取りを考え,自然界や食物連鎖を通して安定に残存し得る物質として酸素,炭酸ガス,水などに対して安定な物質をポーリングの電気陰性度などを駆使して選出し,さらに産業界において水銀,鉛に替わって頻用され得る物質を重ね合わせて,有機錫を取り挙げた。海外から2年がかりで標準化合物を集め,ガスクロ,液クロで分析法を作り,有機錫の研究をスタートさせた。やがてその3年後には,この研究が有機錫の食品衛生上の問題点を懸念するWHO特別委員会や海洋汚染を問題視する米国商務省標準局 (NBS),米国海軍研究所,ロックフェラー大学などからの招聘,講演,研究協力依頼などへと発展し,国際的規模の有機錫海洋汚染に関する研究の発端となった。そして,これがさらに国際海洋会議,国際有機錫シンポジウムなど種々の国際会議開催へと発展し,現在,この有機錫による海洋汚染は生態系の破壊からさらに環境ホルモン (内分泌撹乱化学物質) の問題へと発展 (?) している。

 また,時を同じくして手掛けた台湾政府要請のPCB中毒事件は現在のダイオキシンの問題へと発展し,5年間にわたる東京都 (美濃部都知事) 委託のプラスチック添加剤の安全性評価の研究は可塑剤,安定剤などにおいて,20年後の現在問題視されている環境ホルモンの全てを包含する結果となっている。

 ここでは紙面の都合で,これまでの研究の中から微量元素あるいは金属の欠乏や過剰による免疫毒性や脳神経毒性の一端を紹介させていただく。すなわち,微量元素の欠乏症としては最も顕著な免疫不全や脳機能障害を誘発する亜鉛欠乏症を,また過剰症としては免疫毒性,中枢神経障害,そして最近では環境ホルモンとして内分泌撹乱など,最も顕著で多彩な症状を誘発する有機錫中毒症を選び,亜鉛欠乏と有機錫暴露の免疫毒性ならびに脳神経毒性における症状発現が非常に類似していることに着目し,その類似症状発現の接点を考察する。

 免疫系においては,亜鉛欠乏は主としてT細胞の数の減少や機能の抑制を誘発し,T細胞依存性の免疫能を低下させる。しかも,この亜鉛欠乏による免疫不全の特徴は胸腺ならびに胸腺依存性リンパ組織の選択的萎縮とそれに伴なう細胞性免疫の不全である。一方,ジブチル錫,ジオクチル錫などのジアルキル錫や,トリブチル錫,トリフェニル錫,トリシクロへキシル錫などのトリアルキル錫も重篤な免疫障害を誘発する。とくにジブチル錫やジオクチル錫は胸腺ならびに胸腺依存性部位を選択的に萎縮させ,T細胞依存性の免疫機能を抑制する。この抑制作用の強さはジブチル錫,ジオクチル錫>トリブチル錫>トリフェニル錫の順であり,かつこの作用はこれら物質がもつ他の酸化的リン酸化反応の抑制や脳浮腫よりも鋭敏である。両者の類似症状発現の接点はその発症要因の共通点から推察して,胸腺萎縮に関してはT-リンパ球の(1) リン脂質代謝系の阻害 (有機錫の場合は核ではなく,ゴルジ体や小胞体領域への集積による),(2) DNA合成阻害,(3) 細胞増殖抑制,(4) 細胞死による萎縮などが考えられ,また免疫機能の低下に関しては胸腺萎縮というT-リンパ球の量的異常と (5) 亜鉛を活性中心とする胸腺ホルモンの活性低下などによる胸腺におけるT-リンパ球の分化,成熟過程の異常 (質的異常) による免疫応答系の混乱が考えられる。

 脳神経系においては,亜鉛欠乏は記憶学習障害や嗅覚障害などを誘発する。また,トリメチル錫,トリエチル錫,トリブチル錫などのトリアルキル錫暴露においても同様に記憶学習障害や嗅覚障害などを誘発する。また,トリメチル錫,トリエチル錫,トリブチル錫などのトリアルキル錫暴露においても同様に記憶学習障害や嗅覚障害などを誘発する。これらの症状の併発はまさにアルツハイマー病の併発症状そのものであるが,亜鉛欠乏と有機錫暴露の両者の類似症状発現の接点はその発症要因の共通点から推察して,記憶学習障害に関しては海馬亜鉛の消失にある。すなわち,亜鉛欠乏あるいは有機錫暴露による (1) 海馬のCA3, CA4領域の苔状線維 (mossy fiber)・シナプス終末に多量に局在する亜鉛の欠乏あるいは消失,(2) 亜鉛の消失によるカルシウムチャンネルの調節異常とそれに伴うカルシウムホメオスタシスの崩壊 (亜鉛はカルシウムチャンネルのモジュレーター),(3) 記憶学習システムの崩壊,(4) 神経細胞死などが考えられる。また,嗅覚障害に関しては,嗅球,嗅上皮など嗅覚系における (1) 副甲状腺ホルモン (PTH) の著増によるアデニルシクラーゼの活性化とそれに伴うcAMP過剰産生,(2) cAMPの過剰増大によるcAMP依存性カルシウムチャンネルの調節異常,(3) カルシウムチャンネルの調節異常に伴うカルシウムの過剰集積と,(4) それに伴う神経細胞 (顆粒ニューロン) の死が共通要因として挙げられる。
 また,胸腺が免疫系−内分泌系−神経系に相互に関与していることが考えられることから,有機錫招来の胸腺萎縮にみられる化学的胸腺摘出 (chemical thymectomy) あるいは不全状態が免疫機能の障害ばかりでなく,神経,内分泌系に作用し,学習・記憶などの脳機能の障害の誘発や加齢促進,さらには個体老化の促進などを誘発することが示唆される。現在,この観点からも検討を加えているが,神経内分泌系への影響を示唆するいくつかの興味ある知見を得ている。



 以上の例でも解かるように,元来,免疫毒性という概念は化学物質による免疫系への有害影響を研究する分野として構築されるべきものであろうが,これからの免疫毒性学は免疫領域だけからの把握では到底不充分であり,脳機能や内分泌の領域をも抱き込んで把握し,構築してゆかねばならないことを痛感する。そして,免疫修飾物質 (immunomodulators) あるいは免疫関連反応物質 (immune-interacting compounds) の免疫系への修飾を出来るだけ正確に把握するためには,それぞれの反応進行状態に合った,より特異的な検出法の選択が要求される。現在,ヒトならびに実験動物において種々の免疫能パラメーターが使用されているが,現在のところヒトにおいてそれぞれの免疫応答における進行状態を的確に,しかも特異的に把握できる試験法は未だ十分には確立されていない。従って,現状ではいくつかのパラメーターを組み合わせて施行してゆくことが必要であろう。そして,あくまでも免疫毒性 (広義には免疫応答の修飾) 評価は最終的にはヒトにおいて成されなければならないものであるから,動物からのデータは常にヒトへの外挿を念頭において評価されなければならない。そして,今後の課題として最も要求されることは新しい,より特異的な免疫能パラメーターの開発とその確立である。そして,さらにそれぞれのパラメーターから産出されるデータを蓄積すると共に,これらのデータを解釈できる学問体系を確立してゆかねばならない。