≪Non-category (寄稿・挨拶・随想・その他)≫

連載 "Lessons with madness"


1997; No.4, p7-8/1998; No.5, p6-7


白川 太郎
Lung Research Unit, Churchill Hospital, University of Oxford


(1) 喘息との出会い

大学を卒業して京大胸部研第1内科に入局した。偶々,健康診断書を書いて頂いたのが縁で川合満講師(当時)の外来に助手としてつくことになった。川合先生は週2回喘息外来を持っておられ常時百数十人の外来患者が訪れていた。受付開始前の午前5時から北は北海道,南は九州から患者が長蛇の列を作って待っているというすさまじさだった。私はやがて点滴を全てまかされたが何十年にも渡って点滴を受けたりステロイドを使用された血管は細く,もろく,最初はまったく入れることができなかった。やがて,幾多の失敗の連続の末にようやく百発百中の術を得た。すると,患者の信頼を得ることができ次第に患者達は私に心を開いてくれるようになり私も机をもらって診察をさせてもらえるようになった。こうして私は多くの喘息患者の臨床に接することができた。

川合先生は非常に広い人脈を持っておられ週末には必ず講演会や研究会に東奔西走していた。私は文字通り"鞄持ち"として同行を許され北は北海道から南は九州まで,多くの大学や病院で喘息外来の実際をつぶさに観察したり,研究会で最新情報を得ることができた。こうして私は大学研修時代のわずか1年余の間に延べ一万数千人以上の喘息患者をみることができ,小児の患者,老年の患者,男性,女性の患者,重積発作の患者,人工呼吸器での管理,妊娠患者の発作,喘息患者の術中管理,アスピリン喘息など喘息のありとあらゆるパターンをまじかに接することができた。中には残念ながら自宅で発作を起こし急いでかけつけたにもかかわらず救命し得なかった例もあり,急いで人工呼吸器につなぎ気管支鏡で吸痰し救命し得たこともあった。また,患者の家族にも多く接することができ,いったん患者達が日頃何を考え,どのように生活し,そしてどんなきっかけで発作を起こしたかをじっくりと考えさせる機会を頂いた。

私はこうした経験の中でまったくの駆け出しの研修医であったけれど,喘息の理論と臨床に関し誰よりも深い理解と経験を持ち得たと自信を持つことができた。このことが後に私が職業性の喘息の研究,そしてライフスタイル,環境要因と遺伝要因の喘息における研究を行うにあたり大きな財産となり貴重なヒントを与えてくれることともなった。このような貴重な体験を与えてくれたのは日下幸則先生(現福井医大環境保健教授)のおかげである。当時阪大衛生学(現環境医学)の助手であった日下先生は一緒に職業性呼吸器疾患をやろうと私を誘ってくれたのであるが,自分は研修を受けずに助手になったので産業医をやっていても,何を訴えているのか,どのような病気を考え,何の検査を受けさせたらいいかわからず苦労し後から研修することになったので,私には最初に研修を受けることを勧めてくれたのである。早く基礎研究をしたかった私は不満であったが今は大いに感謝している。

このような経験から私は若い医師諸君やこれからこの世界を目指す若い医学生の諸君にはぜひとも1〜2年間死にものぐるいで臨床研修を受けることを勧めたい。また,指導される先生方にはぜひこの世界に入る若い方々に臨床研修を勧めて頂きたい。この経験は必ず後の研究において生きてくるであろうし,患者達の生の姿を経験することは医師,医療関係者として何をすべきかを教えてくれるであろうと私は信じているからである。


(2) 職業性喘息との出会い

 日下先生と私の職業性喘息の考え方は,「このタイプの喘息は一般の喘息と異なり,特殊物質をある特定の時期から暴露するため量反応関係が追跡しやすい」というものだった。この考えに基づく戦略は,「たとえ一例でもよい。暴露開始から発症までの期間,暴露量と肺機能,特異IgE抗体,好酸球数,皮膚テストなどの当時知られていたマーカーを追跡できれば喘息のメカニズムは,わかるであろう。」というものであった。

 この戦略に従って日下先生は当時産業医をされていた合金工場で徹底した衛生学的調査を開始した。この工場ではコバルト (Co) を基質とする合金を作っており,日下先生は全従業員の肺機能変化,血中,尿中Co曝露量を詳細に記録し,ほぼ5%の従業員に1秒率の低下を認め,ピークフローメーターによる日中の変化のパターンから,これらの従業員が職業起因性喘息の疑いありとして,吸入テストのために,これらの従業員を私の病院へと紹介してきた。

 当時私は高槻赤十字病院呼吸器科で研修中であったが,私の上司は日置院長 (現洛和会病院顧問),加藤副病院長 (現病院長),藤村部長 (現比良病院副院長) という市中病院にしては研究に最強のメンバーであり,私の調査に惜しみないバックアップをいただいたのは幸いであった。特に藤村部長はTDI喘息の日本の草分けとしてこの分野に非常な知識の持ち主であり,厳しく指導していただいた。彼の提案で吸入テストをするには日本の標準法ではなく世界の標準法でやらないと一流の雑誌にacceptされないということで,業者の方にお願いして通産省とかけ合って日本で第一号のdosimeter吸入テスト一式を京大グループと共にJohns Hopkins大学から輸入した。記念すべき第1号機は今も病院におかれている。

 当時Coがこの喘息の原因であるらしいと考えられていたが,誰も定量的吸入テストはやっていなかった。送られてきた8名の方々にCoCl2溶液を吸入させると,全員喘息発作の誘発が観察された。注意深く対照喘息患者を選び2%溶液まで吸入させたが喘息は誘発されなかった。私自身も2%溶液を吸入してみたが,ノドにかなりの刺激を感じるものの肺機能には全く変化なかった。8名の吸入テストで半数以上に遅発型を認め低分子特有のパターンも確認された。一方,半年に及ぶ悪戦苦闘の末,Co特異抗体の測定に成功した。抗原なしでのバックグラウンドが高く感度が低かったが,pHをあげて抗原を作ることでバックグラウンドを下げることができた。また,イオン交換樹脂の方が簡単に抗原を作れることもわかった。吸入誘発者の大部分にCo特異抗体を認めた。こうして我々はCoがこの喘息の原因であることが確定したと考えた。しかし念を入れるために,基質として含まれ同じVIII族元素であるニッケル (Ni) では反応が起きないことを確認しようと考えた。再びNiの吸入テストを行ったところ,驚くべきことにほぼ全員が陽性反応を示した。当時ニッケルの特異抗体検査法は確立しており,調査したところNi抗体も検出され,同一患者にCo抗体とNi抗体が存在した。当時皮膚ではCo, Niの交差反応が知られており,我々はこれを気道でも初めて観測したことになる。もはやどちらが主たる原因物質かは不明であり,我々の戦略はこうして完全に暗礁に乗り上げてしまった。

 職業性喘息との出会いの中で私は極めて多くのことを学んだが,印象に残ることは2つある。その第1は自分の経験を英語論文にするということにある。藤村部長は,「市中病院こそ症例の宝庫であり勉強しない者はいるべきではない。論文を書け!それも世界の人が読めるように英文で!」と厳しく教えられた。毎日夜中の2時3時まで慣れない手でタイプライターを打っていた。我々はこの成果を世界に問うべく米国胸部疾患学会に応募したところ,日本人として初めてこの分野でシンポジストに指名され演台の上でディスカッションに加わった。悲しいかな当時の私の英語力はお粗末極まりないもので矢継ぎ早に飛んでくる質問にトンチンカンな答えをしては会場の爆笑を買ってしまった。最前列に陣取って応援してくれた藤村部長の悲しい顔,そして,シンポジウムが終わりションボリしている私に「次回はガンバロウネ!」と優しく声をかけてくれた座長のM. Chang-Young教授の顔は今も忘れられない。この時以来私は最低限の英語力は付けようと心に誓い,英語論文のみを書くことにした。日下先生と私は競うようにして30編近い英語論文をこのフィールドから書き上げた。その結果10年たった今も職業性喘息のテキストや総説には我々の論文が必ず引用され続けている。藤村部長に感謝したい。

 第2点は,誰のために我々は研究を行うのかということである。吸入テストを行った当時,私はあらゆる喘息のパターンを理解していると自信過剰であったと思う。最初の患者Mさんと6時間に渡り吸入後肺機能を追跡したが何もなかった。明朝,再度肺機能を調べる旨を告げ二人は笑って分かれた。ものの5分もしないうちに私の名を呼ぶ緊急放送が病院全館に流れ病棟に駆けつけると,ほとんどショック状態でMさんはかすかな息をしつつ倒れていた。私に加藤副院長が緊急挿管を命じ事なきを得た。話には聞いていたが遅発性喘息発作,それも低分子誘発型の恐ろしさをまざまざと見せつけられた。回復したMさんは我々に「これは人体実験ですね。」と静かに語った。日下先生と私は何時間も時間をかけて,このテストの意味,Mさんの予後,労働安全衛生法及び施行規則について率直な話し合いを行った。最後に彼が「先生方を信頼します」といってくれた時は本当に喜ばしい気持ちであった。同時に彼の将来について責任があるのだという緊張感を味わった。以来被験者にはテスト前に時間をかけて話をした。家族のこと,テストのこと,予後や,治療など,この過程を通じ私は職業性疾患の研究とはこのような人々のために研究するのであり産業医は労働者の健康のみならずその人の一生も左右する重要な任務を負っている自覚が必要だということを身をもって学んだ。そして職業性アレルギーの原因を究明しほとんど患者をなくすことに成功した,ホヤ喘息の城先生やベリリウム肺の島先生の功績の大きさを改めて知ったのである。