≪Non-category (寄稿・挨拶・随想・その他)≫

免疫指標を用いて健康状況を把握することを目指して


1998; No.5, p2-3


谷川 武
筑波大学社会医学系

 私と免疫毒性との関わりは,上記の期待から始まりました。学生時代には心身医学に興味をもち,神経生物学にも興味を持ってラットの海馬にガラス電極を刺し,LTPの発現とその薬理的影響に関する実験などを生理学教室で行っていました。また一方で全人的医療を考える会という全国の医療系学生の会に参加し,病気をみる医療から患者をみる医療を学ぶためのトレーニングを学生同志でおこなう中で講師の先生方から予防医学の重要性を説かれ,予防・健康科学に強く心を動かされました。6年になり進路を決める際,多くの友人が内科系,外科系などに絞り込み,どこに入局するかを考えている時に私は自分のやりたい仕事を列挙し,なるべくそれらが達成できる所へ進もうと考えていました。私の考えていたことは,@感情と免疫,脳と免疫系などの関連を調べることにより,いきいきとした生活を送ることによって病気にならない,なり難いことを証明したい。当時psyhoneuroimmunologyという言葉が出始めた時であり,このフレーズにビビッと感じるものがありましたA免疫系の仕組みをもっと知りたい。特に癌免疫に関係の深いNK細胞について勉強したいB医者として患者さんの苦痛を軽減できる技術を身につけたい。医学部で山盛りの知識を学んだが医師が実際どのようにして病気を直すのか,またなぜ人は病気になるのかを病院に勤務して学びたいC病気にならないようにするにはどうすればよいかをもっと医療職以外の世間一般の人がよりよく理解してその方法を実践できるような科学的根拠を確立したい。以上の希望を整理すると,予防医学分野で免疫指標を用いた健康度の測定方法を開発し,さらに臨床医としての経験も積みたいという医局の都合等を考えに入れていない浮世離れしたものでした。

 ところが,このような私の希望が叶うところがあるよと友人が勧めてくれたのが当時小泉明先生 (現産業医科大学学長) が教授をされていた東京大学医学部公衆衛生学教室でした。大学院に入れて頂き,1年間河北総合病院という非常に教育体制の充実した研修病院でトレーニングを受ける機会を得,さらに翌年から自治医科大学の湊長博先生 (現京都大学教授) のもとでNK細胞を中心とした免疫学の勉強をさせて頂くことになりました。このようにやりたい勉強をやりたいようにさせて頂いたことは本当に恵まれたことであり感謝しております。

 湊先生は,学生時代からT細胞の発生,分化に興味を持っておられたようで,NK細胞に関する研究で有名でしたがその当時の研究の中心は,種々のT細胞関連のサイトカインとともに培養したマウスのリンパ球を用いて各胎生期のT細胞系列の発生,分化に伴って出現する細胞膜表面抗原を同定することでした。私はこの研究の中で,フローサイトメトリーを担当し,朝から晩まで細胞染色をしていました。大学院3年になり,学位論文の作成テーマを決める際,小泉先生の後任の荒記教授のご専門が産業医学であることからこの分野で免疫学的方法を用いたことはできないかと湊先生と相談しましたところ湊先生が自治医科大学に赴任した直後に泌尿器科教授の米瀬先生から職業性膀胱癌のハイリスク者のNK細胞活性を測定するように依頼され測ったがその後,米瀬教授が亡くなられ,この仕事は進んでいないのでやってみてはどうかと勧められました。

 免疫測定の方法論はあるものの採血協力に応じて頂ける企業がなかなか見つからなくこの計画は難航しましたが,東京女子医科大学名誉教授石津澄子先生の御指導,ご支援を頂くことができたおかげで約100名のNK細胞活性の測定が実現し,さらにリンパ球分画の変化についても以下のような結果をまとめることができました。@職業性膀胱癌の発癌物質として知られるベンチジン,ベータナフチラミン等のアゾ染科曝露者ではCD16+NK細胞率が高くNK細胞1個当りのNK細胞活性が有意に低下していた1)。A高濃度曝露群ではCD4+およびCD3+T細胞数が有意に低下していた2)。B高濃度曝露群ではCD4+T細胞数のうち,特にナイーブT細胞といわれるCD4+CD45RA+T細胞数が有意に少なく3),CNK細胞活性が最も低い分画であるCD57+CD16−NK細胞の絶対数はむしろ増加していた4)

 大学院3年の時,職業性肺癌の発癌物質として知られるクロムに長年曝露したクロム酸塩製造工場の勤務者 (退職者) の肺癌検診をされている東京労災病院健診センター部長の荒木高明先生と出会い,クロム作業者の免疫状況を把握することになりました。その結果,クロム作業者のCD16+NK細胞のリンパ球全体に占める割合は高いが,NK細胞1個当りのNK細胞活性には有意差は認められず5),ACD4+,CD8+およびCD3+T細胞数が低く6),Bさらにリンパ球分画を詳細に調べたところクロム作業者のCD57+CD16+NK,CD4+CD45RA+およびCD8+T細胞数が減少していることがわかりました7)

 発癌物質以外に現在広く産業現場で用いられている混合有機溶剤 (主にトルエン) 曝露と免疫系の関連も検討しました。某グラビア印刷工場に勤務する健常男子16名を対象として,有機溶剤作業工場が稼働中の金曜日の昼食前 (高曝露時,週末) では翌週月曜日の就業前 (低曝露時,週始め)と比べて全てのNK細胞分画数 (CD57−CD16+, CD57+ CD16+およびCD57+CD16−細胞),CD4+CD45RA+TならびにCD8+T細胞数が有意に少なかったがCD19+B細胞数は有意に多かったという結果を得ました8)。発癌性などの問題がなく一般に広く用いられているトルエンが免疫系に如何なる非顕性影響を及ぼしているかについて今後さらに詳細な検討が必要と思われます。
 以上のように有害物質曝露と免疫系の関連を検討していくうちに交絡因子として日常生活習慣のなかで特に喫煙が重要であることがわかってきました。喫煙者のCD4+T細胞数が増加することおよび喫煙アゾ染料作業者のCD4+T細胞数は健常非喫煙者と有意差が認められなかったことから有害物質の免疫毒性をリンパ球分画によって評価する際に喫煙状況をコントロールすることが不可欠であること9)や,健常人においてCD4+CD45RO+T (メモリーT細胞) 細胞数の増加と喫煙本数の間に量−影響関係があることがわかりました10)

 私の研究はいずれもまだ進行途中であり,免疫指標が健康指標として有効か否かの検討には至っていません。はたしてナイーブT細胞数の低下の程度と発癌または再発と関連があるのか,有害物質曝露による免疫系変化の機序をどのように解明すればよいか,さらに有害物質による免疫系の変化を免疫賦活剤により調整可能か等々,今後の研究課題は山積みですが,これらの課題に関して免疫毒性研究会に参加されている先生方のご意見を頂ければ大変ありがたく存じます。

 2年前に所属が変わり,ストレスと免疫に関する仕事が主になってきました。免疫毒性を考える際,心理社会的因子が大小様々な免疫修飾因子として人間はもとより動物実験でも重要なテーマになることが予想されます。免疫毒性とストレスについて免疫毒性研究会の先生方はどのようにお考えでしょうか。今後の研究会の話題にのぼることを期待しています。

 [文献]
1) Tanigawa, T. et al. (1990) Br J Ind Med 47 : 338-341
2) Araki, S. et al. (1993) Arch Environ Health 48 : 205-208
3) Sung, HL. et al. (1995) Arch Environ Health 50 : 196-199
4) Tanigawa, T. et al. (1996) Int Arch Occup Environ Health 69 : 69-72
5) Tanigawa, T. et al. (1991) Br J Ind Med 48 : 211-213
6) Tanigawa, T. et al. (1995) Am J Ind Med 27 : 877-882
7) Tanigawa, T. et al. (1996) Int J Occup Environ Health 2 : 222-225
8) 谷川武 他 (1995) 産衛誌, 第37巻, S430
9) 谷川武 他 (1991) 日衛誌, 第46巻, 585
10) 谷川武 他 (1994) 公衛誌, 第41巻, 308