≪学会会長賞≫

微量環境化学物質と胸腺の微細構造

    ―フタル酸エステル類を中心として―


坂部 貢 (北里研究所・臨床環境、北里大学大学院医療系研究科)
吉田 貴彦 (旭川医科大学・衛生学)
香山不二雄 (自治医科大学・保健科学)



〔本研究の目的〕
 種々の免疫応答に対して、環境化学物質が深くかかわっていることが、ここ10数年来の数多くの研究によって明らかになってきた。特にここ数年は、環境化学物質としての「内分泌撹乱物質」の「免疫応答に対する影響」、即ち「免疫撹乱作用」について注目が集まっている。周知のごとく、「内分泌撹乱物質」の多くは、性ホルモン作用を有しているが、性ホルモン(特にエストロゲン類)による免疫応答の制御に関しては、興味深い報告が多い(1,2)。例えば、卵巣摘出により移殖皮膚片への拒絶時間は延長し、逆にエストロゲン(E)投与で短縮する(3)。またPHA、ConAあるいはpokeweedなどのマイトジェンで誘発されるT細胞の幼若化は、E投与によって抑制される(4,5)。さらに、胸腺組織は、卵巣摘出すると皮質―髄質の胸腺未熟Tリンパ球(胸腺細胞)の数の増加によって肥大し、逆にE投与によって胸腺細胞の死滅(特に皮質に顕著)、胸腺実質の脂肪変性などの結果、著しく萎縮する(6,7)。このように、性ホルモンの免疫組織・器官に対する研究知見は、「性ホルモン動態の変動と免疫応答」という観点から重要な意味をもつ。そこで、体内ホルモンの生理的環境を乱す「内分泌撹乱物質問題」を考えた時、これらの環境化学物質が、免疫系に対してどのような影響を及ぼすかについて情報を得ることが、当然のことながら必要になってくるが、これまでの報告例は少ない(8)。そこで今回、環境省の内分泌撹乱作用を有する疑いのある物質としてリストアップされていると同時に、厚生労働省の室内濃度ガイドライン値が設定されているフタル酸エステル類について、この物質の一次免疫中枢としての胸腺に対する作用、特に低用量作用について検討した。

〔方法〕
1) 動物は、エストロゲン(E)高感受性ラットの一つであるBDII/Hanラットを用いた。
2) 3週齢にて両側卵巣を摘出し、5週齢時に埋め込み投与用サイラスティク・チューブにフタル酸ジ-n-ブチル(DBP)またはフタル酸ジ-2-エチルヘキシル(DEHP)を充填し、左背部皮下に埋め込んだ(投与量:約30ng/day)。
3) 非投与コントロール群には、同チューブにコーンオイルを充填し、同様に皮下に埋め込んだ。
4) 8週間の後、屠殺し胸腺を取り出した。取り出した胸腺の右葉部は、4%PLP液にて常法通りに固定し、通常観察(光学、走査・透過型電顕)・組織化学に用いた。
5) 残りの左葉部は、周辺の結合組織等を十分に取り除いた後、常法通りにリンパ球分画と上皮分画に分け、それぞれ胸腺細胞のサブセット解析、胸腺ホルモン(Thymosin-α1)のELISA測定(9)に用いた。

〔結果〕
1) 光学顕微鏡所見:フタル酸エステル類投与群では、胸腺皮質の著名な萎縮(退縮)が認められ、胸腺細胞の密度も減少した。また、小葉間結合組織の軽度脂肪化も認められた。髄質は、非投与コントロール群と比して大きな形態変化は認められなかった。
2) 電子顕微鏡所見:フタル酸エステル類投与群では、マクロファージに取り込まれた胸腺細胞のアポートシスが、被膜直下、皮髄境界に数多く観測され、非投与コントロール群とは明らかに異なる所見を示した(図-a,b)。さらに投与群では、胸腺上皮細胞の細胞質に多数の脂肪滴が観測された。



3) 胸腺細胞のサブセット解析では、投与群でダブルポジティブ細胞(CD4+CD8+)の相対的減少(Control:84.3%, DBP:77.5%, DEHP:80.7%)が認められた。
4) 胸腺において胸腺細胞の教育に深い関わりをもつ胸腺因子としてのThymosin-α1の含有量は、非投与コントロール群(284±32.6ng/mg protein)と比して、投与群において著名に減少した(DBP:132±24.7ng/mg protein,DEHP:172±28.9ng/mg protein)。
5) 以上の結果より、フタル酸エステル類は、主として胸腺の皮質に作用し、未熟Tリンパ球の分化・成熟に対して、直接的に、あるいは胸腺上皮を介して影響を及ぼすことがわかった。

〔結語〕
 本研究では、いまだ不明な点の多い内分泌撹乱物質の免疫毒性作用について、一次免疫中枢としての胸腺に対する影響をモデルとして検討した。今回投与したフタル酸エステル類も含め、内分泌撹乱物質は何らかのエストロゲン作用を有するものが多い。しかしながら、これら環境化学物質の免疫系に対する影響を調べる以前の問題として、内因性エストロゲンの免疫系に対する作用ですら十分に解明されているとは言えず、今回の研究結果を解明の糸口として今後更なる研究を継続したい。

〔参考文献〕
1) Kawashima I et. al., Localization of sex steroid receptor cells, with special reference to thymulin (FTS)-producing cells in female rat thymus. Thymus, 18, 79-93 (1991).
2) Olsen J et. al., Gonadal steroids and immunity. Endocrine Review, 17, 369-384 (1996).
3) Graff RJ et. al., The influence of the gonads and adrenal glands on the immune response to skin grafts. Transplantation, 7, 105-111 (1969).
4) Wyle FA et. al., Immunosuppression by sex steroid hormones. The effect upon PHA- and PPD-stimulated lymphocytes. Clinical and Experimental Immunology, 27, 407-415 (1977).
5) Sakabe K et. al., Sex hormones affect the intracellular activation signal in mitogen-stimulated human blood lymphocytes. Pathophysiology, 5, 73-77 (1998).
6) Kawashima I et. al., Effects of estrogen on female mouse thymus, with special reference to ER-mRNA and T cell subpopulations. Pathophysiology, 2, 235-241 (1995).
7) Seiki K et. al., Sex hormones and the thymus in relation to thymocyte proliferation and maturation. Archives of Histology and Cytology, 60, 29-38 (1997).
8) Sakabe K et. al., Estrogenic xenobiotics affect the intracellular activation signal in mitogen-induced human peripheral blood lymphocytes: immunotoxicologiral impact. International Journal of Immunopharmacology, 20, 205-212 (1998).
9) Sakabe K et. al., Inhibitory effect of natural and environmental estrogens on thymic hormone production in thymus epithelial cell culture. International Journal of Immunopharmacology, 21, 861-868 (1999).